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今さらながら「第5回 古都の光」の話

  このブログで「古都の光」をPRさせてもらってから、早や3ヶ月経つ。何を今さらと言う気もするが、当日の事を書いてみたい。


 昔の政庁の回廊があった所に800個の紙灯明を置く。この灯明は、紙袋に砂と直径3〜4センチ程のアルミカップに入ったロウソク(ティーライトとか言うらしい)を入れただけの簡単なものである。次に、建物の大きさがよりわかるよう、四隅や入口があった所に、赤く大きな灯明を置く。そして、アクセントとして北側にある石碑にスポットライトを当てた。最後に、回廊の真ん中に簡単な台で2畳程の舞台を作り、簡単なPAとライトを1つ。
 舞台装置はこれだけである。ここでチェロの独奏を行った。
 奏者は、時間が来たらスッと舞台に上がり演奏を始める。クラッシックに興味がない人でも聞き覚えがある曲を演奏して、時間が来ると静かに立ち去る。
 曲の紹介も奏者の紹介も一切なし。月夜の政庁跡に、ただ静かにチェロの音が流れる。聴き手に、都がここにあった時代に思いを馳せてもらうため、太宰府の秋の静けさを感じてもらうため、のBGMにしようと云う考えだ。


 果たして、演奏開始の時間となった。
 奏者が静かに舞台に上がると、思い思いの場所で演奏を待っていた人達は、自然と舞台を囲むように集まり、曲に聴き入る。チェロの音が舞台から段々と広がっていくにつれ、聴き手が少しずつ増えていく。
 1曲終わる毎に控え目な、でもしっかりとした拍手が起こり、また曲が始まる。事前にPRしていなかった事もあり、聴き手の数は100名を超える程度だったと思う。しかし、このコンサートと言うかイベントは、自然な形で始まり、自然な形で終わった。この場にいた人達は、それぞれに、歴史なり、秋なり、音楽なりを楽しんでいただけたと思う。
 私達主催者サイドの目論見は当たったと思うと同時に、この政庁跡の力を改めて感じた。たったこれだけの舞台装置で、歴史や自然を感じさせられる空間が出来上がるのである。


 もう1つ、私個人が感じた政庁跡の力がある。
 当日私は、このイベントの舞台監督のアシスタントの真似事をしていた。
 聴き手は舞台の方を見ているのだが、その背後には四王寺山が聳えている。四王寺山には電灯等の人工の光がほとんどない。と云う事は、聴き手は千年前の大宰府に住んでいた人と同じ月、同じ星を見た事になる。
 逆に私は聴き手ーお客さんの方を向いている訳だが、そこには、国道3号線バイパスを行き交う車のヘッドライト、家やマンションの灯り、果てはケバケバしいパチンコ屋のネオンと、人工の光が渦巻いている。今の太宰府が目の前に広がっているのだ。
 首を回せば、千年の時を瞬時にして行ったり来たりする事が出来る。こんな舞台はそうザラにはない。


 今年は、この舞台に相応しい意義のある事をしたいと思うのだが、どうなりますやら。
 兎に角、なにか出来るようにしたいと思います。
 兎年ですから。


※演奏の様子はありませんが、当日の模様はこちらでご覧いただけます(コメントでは「チェロ」が「ビオラ」になっていますが、そこはご愛敬と云う事で)
http://www.kataranne.com/index.php?option=com_content&view=article&id=177&Itemid=144

author:itsumono, category:-, 12:39
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薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−65
 秋の夜長だ、虫の音も心地いいこの頃、様々な面白いお客様がいらっしゃる。
話題も多彩、私の知らない貴重なお話や情報が毎日舞い込んでくる。
それらのお話がお客様の間で様々に乱反射して、色々な角度からのまたまた
面白いお話が、具体的な裏付けの元に解り易く話されると、知らず知らずに
勉強をさせて頂いている幸せを感ぜずにはいられない。
まったくお店冥利に尽きる。この四方山話がお客様にとっても何かになれば
と思う・・。ゴールデン街に居る様な錯覚さえ覚える。本当にありがたい事だ。

個人の能力には限界がある。<他者>と話すという事は、自分の知らない世界
あるいは、ものの見方を学ぶ絶好の機会のような気がする。
様々な立場、職業、年齢、性別、国籍などの違いによって同じテーマでも驚く程
多彩な情報、意見が飛び交う。これが面白くない訳がない。
異業種交流を毎日やっているようなものである。

お客様が、北九州芸術劇場の機関紙「ステージ通信Q]を持ってきてくださった。
表紙は「北九州国際音楽祭」、響ホールとのジョイントらしい・・。
ハーゲン・弦楽四重奏団、タチアナ・ヴァシリエヴァのチェロ、ジェモー四重奏団
新進パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルをはじめ他にも日本の注目の
演奏者の目白押しだ。派手ではないが、これだけ内容のある充実した音楽祭を
開催する北九州のプロデューサー達に敬意を感じる。予算的にもだいたいの
規模がわかる。あくまで持続する事が念頭にあるお金の遣い方だ。すばらしい。

裏表紙を見て「エッ」と叫んでしまった。久々に見る”天児牛大”あまかつうしお
と読む。ここでも何度か紹介した「山海塾」の創設者だ。
北九州芸術劇場とパリ市立劇場と山海塾の共同プロデュースだそうだ。
まえから北九州芸術劇場には注目していたが、この堂々のラインナップは
まったく最先端をいっているばかりではなく、アジアの文化発信基地としての
ゆるぎない地位を確立しつつあるような勢いである。

地勢上、九州が東京よりもアジアの様々な文化の発信基地になる可能性は
大きいし断然有利だと思っている。戦後の欧米の文化と日本の伝統文化の
ストックはアジアのほかの国にはq真似できない質と量を持っている。
他にもラッパ屋や南河内万歳一座や小松政夫とイッセー尾形の二人芝居や
演劇集団キャラメルボックス、文楽、落語、カンパニー・デラシネラなど、
福岡の人が聞いてもちんぷんかんぷんだろうなと思われるラインナップが続く。
何しろ、福岡でこれらの名前を口走る人を殆ど見た事がないからだ。
それに加えて、地元のアーティストも多数参加している。
わずか100kmも離れてないのに、何故ここまで北九州が明るいのか?
情報としては九州第一の都市のはずだが、この差はなんだろうと思う。

以前、福岡には劇団とかあるの?と聞いたら、芝居をやっている子が、
プロではないけど小さい劇団は100ぐらいあると思いますと言う。
しかし、大名や天神のそれらしい店に入ってもポスターやちらし一つ見た事
がない。お店にポスターを貼らしてくれと頼んでも断られる事が多いと言う。
何故だろう?東京や大阪ではよっぽどの店じゃなきゃ断られる事はない。
都市なのに猥雑な文化の匂いがしないのには不気味ささえ感じる。何故だ?

結局、中州ジャズもお金に任せて東京からビッグネームを呼ぶような形に
なってしまった。予算の膨大さは持続を脅かす。地元に根付くというムーブ
メントになっているのか?福岡の文化行政や福岡の方々の文化意識は
どうなっているのだろう?地元のアーティスト達のチラシやポスターを
置かないのはどういう考えからだろうか?しかも、私から見ていかにも
それらしい店であるにも拘らずだ。ローカルなワイドショウのようなものを見ても
ただ色々な食い物屋やちょっとした文化的?なグッズの紹介や、温泉などで
はしゃいでいる地方タレントを見るにつけげんなりする。もう何年同じような事を
続けているのだろう。そしてそれらの殆どが単に商売に結びついているだけ
といううら寂しさだ。そこからの文化的展開が全くない。

福岡では博多座あたりの北島三郎とか宝塚などのテレビなどでお馴染みの
有名芸能人などしか受け入れられないのだろうか?
しかし、メジャーと思われるあの劇団四季でさえ辛酸をなめた・・。
やはりテレビにでていないタレントは相手にされないのか・・・?

そう言えば今度マイフェアレディが博多座に来る。私自身も100ステージは
勤めた作品だ。心に残る名曲揃いのすばらしい作品である。

まだ、シルク・ド・ソレイユが無名だった頃、彼等のサーカスにおけるムーブ
メントは、60年代〜70年代における演劇の一大変革期と同じような画期的な
活動だった。勿論、我々が見逃すはずはない。若き日の演出家ギー・カロンと
日本で彼等のコンセプトでサーカスを作ろうという試みが始まった。
まだシルク・ド・ソレイユなど殆ど誰も名前さえ知らない頃の話である。

それはとてもスリリングな体験だった。毎日何が起こるかわからない。
カナダからやってきたアーティスト達も、日本でサーカスを作るという体験に
心躍っていたようだ。とにかくどうなるかわからないまま、皆熱かった。
そんな事をしているある日、休憩中の雑談で、シルクの連中に「この作品が
終わったら次は何をするの?」と聞かれたことがある。
丁度シルク・ド・ソレイユの後は帝国劇場でマイフェアレディをやる時だったので、
「マイフェアレディ」と答えると、しばらく考えて「何故、日本人のお前が今頃
マイフェアレディを日本でやる必然があるのだ?」と聞かれた。
言われて見ればその通りである。何故マイフェアレディをやるのか?

必然と言われても・・・答えに窮した私は「仕事だよ仕事。」と言う他なかった。
「仕事?」と言って彼は口をつぐんだ。

彼らアーティストにとって作品を創る、やるという事は常に自身の存在をかけた
内的必然性に従って今表現すべき事を今創り、公演するということ以外にない。
表現者としてではなく、単なる職業人に成り下がっているお前は一体何者だ?
という事だろう。「生活のために2足の草鞋を履いているんだ。これは、自分が
したい事、帝劇はお仕事なんだ。」と説明しても納得いかない様子だった。
「じゃあ、おまえにとって仕事とは何だ?生きるとは何だ?」

そういう一見分別があるような自分の生き方に対する仕切りが、実は観念上の
虚構に過ぎないという事を言いたかったんだと思う。言われて見れば自分もそう
言った事があった。
草食系のサラリーマンが、別に出世しなくてもいいし、そんなにお金も要らない、
それより”自分の時間”を少しでも多く大切にしたいんです。てな事を言っている
のを聞いたときに、私も同じような事を思っていたような気がする。

これは裏を返せば仕事をしている時間は”自分の時間”じゃないという事だろう。
昔森繁さんが、若いスタッフに「自分の時間とか自分の時間じゃないとか言うが、
人間生まれたら1分1秒死ぬまで全部自分の時間なんだ。」と仰った事があった。
どういう経緯でこの様な発言になったのか知らないが、自分の人生に自分の
時間と自分の時間じゃない時間があるなどとという、一見合理的なこの言い分け
は実は、自身の現実からの逃避の都合のいい言い訳に過ぎないということ
なのだろう。全部自分なんだ。気休めはやめろ。という事だろう・・。
仕事だろうが遊びだろうがすべて自身が判断して、している事なのだ。

そう言えば、演劇をやっている奴にこういう事を言う奴はめったにいなかった
気がする。仕事が辛いとか、楽をしようとかそんな態度を演劇人に見た事がない。
皆ただ良い作品を作りたいという一心だけだった様な気がする。芝居のためなら
徹夜になろうがどうなろうが厭わない、それをしんどいとかめんどくさいなどと思う
奴を、そう言えば見た事がない。仕事とさえ思っていない奴ばかりだったと思う。

もし、これは仕事だから早く切り上げて”自分の時間”を持ちたいなどという奴が
いたら、演劇人は誰もそいつと2度と仕事をしないだろう。自分の時間ではない
などとうそぶく人間と一緒に仕事をするなどたまったものではない。
じゃあ、そんなおまえと存在を賭けて一生懸命仕事している俺達は阿呆か?
という事だろう・・。1分1秒全部自分の人生なのだ。全部本当の自分なのだ。

多分彼は「仕事だよ」と言った私の言い方に草食系から私が感じた方便を感じて
不愉快な思いになったんだろうと思う。そんな自己欺瞞を平気で言える奴とは
一緒に仕事なんかできないと思ったかどうか解らないが、私の不用意な発言が
このカナダのすばらしいアーティストを傷つけた事は確かだった。

本当にチョットプロとしてやって行けてるくらいで、知らず知らずのうちにユルユル
になっている精神のたるみを引き締められる思いだった。
こういう人間達と同じステージに立てる資格が自分にあるのか?
もう一度、自身の生き方を見直させてくれる彼の発言だった。

彼はいつでも何処でも一瞬一瞬を大切に生きるという事を教えてくれたのだろう。
こういう、阿呆達のおかげで、何度安易な渕から助けられただろう・・・。
持つべきものは厳しい友人である。そのせいか、マイフェアレディは私の精神史
のなかでも印象深い作品になった。

こんな奴が世界中から集まってうじゃうじゃ居るのだからシルク・ド・ソレイユが
世界を席巻するのは当たり前である。

そう言えば、福岡のすばらしい古典のアーティスト達が今度すばらしい
創作能を発表する。題して

「桧原桜」(ひばるざくら)

昭和59年3月、福岡市南区桧原に道路拡張工事のために伐採される事になった
9本の桜の木に地元の住民が

花あわれ せめてはあと二旬 ついの開花を ゆるし給え

という色紙をかけたのがきっかけとなり、花を惜しむ人の色紙や短冊が次々と
桜の木にかけられたところ

桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は

と、当時の進藤福岡市長からの返歌があり、道路計画は変更され桜の木は
残ったというお話を題材にしています。

能楽師もシテもワキも地謡も福岡のすばらしいアーティストが勤めます。
12月4日土曜日、福岡市南区市民センター文化ホール、開演18時です。
このような公演がたった一日で終わるのも悔しいですが、このような素晴しい
アーティスト達が福岡にも沢山居ます。それらを育てるのは福岡の方々以外に
考えられない。ポスター・チラシを置いてやってください。
そして是非ご覧になってください。

結局、金でどこからか出来合いの文化をこれ見よがしに買ってくるのではなく、
「はいはいわかりました福岡はさすが力がありますね。」というような事を誇示する
ためではなく、自分達の文化を街ぐるみで創造していく、手前勝手じゃない、
目先の損得じゃない、我田引水じゃない”愛”がまず必要だと思います。

「文化の育たないところには経済は育たない。」 とアンドレ・マルローが言うように
文化のある面白い町には必ず人が集まります。人が集まるという事は畢竟経済も
潤うという事でしょう。人を集める為に、単に安売りや損得の特典をつける位しか
方法がないような寂しい社会は願い下げです。花火のように派手に瞬間大風呂敷
を広げて、俺だってやる気になればこれぐらいの事は出来るんだと威張る様な事
ではなく、北九州市のように地道に自らの文化や生活や存在をを見つめ直し、
継続する事を第一の念頭において、辛抱強く自身の文化的な価値を育ててゆく事
が福岡にできるか?という事だと思います。
北九州もここまで来るのに20年かかりました。中州ジャズも10年続けばやっと
話として始められるくらいの気持ちが大切でしょう。
まったく日本の中でもレベルの高いこの企画が出来上がるために、20年の努力
があったわけです。本当に感心しました。しかしまだ創作という部分が弱いのは
人間がもう一つ育っていないせいでしょう。これが一番重要でかつ時間がかかり
ます。

そして、福岡にもステージングや演出のレベルが上がれば、充分世界と戦える
作品が作れる、素材(表現者)はいます。ただ、スタッフワークがまだまだなので
中々活かされてはいません。デリケートな感性豊かなスタッフを育てるのも今後の
課題でしょう。

「桧原桜」を福岡の皆さんの手で福岡の宝物にしてください。
街ぐるみで福岡のアーティストを応援してください。宣伝告知に協力してあげて
下さい。お金ではなく汗を流して自分達の世界を自分達の手で創造してください。
author:dolphys, category:-, 10:11
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薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−64
 朝青龍の引退の報道を見た。
日本で、優勝25回の大横綱になったモンゴルの青年。
彼の居なかった間の相撲をしばらく見慣れていた私は、改めてこの男の
スター性を再認識した。
現在、彼以上に魅力的な”花”のある力士は他に見当たらなかった。
プロ的に言えば顔が開いているという事になると思う。存在の顔をしている。

この存在の顔=顔が開いているという事には、善悪、よしあし、上下左右、前後
などは関係が無い。簡単に言えば人をひきつける顔といったところか・・・。
チョット前で言えばアメリカのブッシュとビン・ラディンの顔と言えば解り易い。
9.11の頃、利権のバランスの中で形作られたブッシュの顔と、ある種の信念に
磨かれたビン・ラディンの顔とがよくテレビで並べられた。

二人の顔は実に対照的で、特に目の力、深さには雲泥の差があったように思う。
正義がどちらにあるのか?歴史はまだ判断を下せていないが、何も知らない人
に顔写真を見せてどちらが魅力的かと聞いたら、おそらくビン・ラディンと答える
人が多いのではないかと思う。
これは、いい悪いは別として単純に存在があるかないかの違いなのである。

日本で言えば、常に自身の言葉で自身の思想信念に基づいて言葉を発していた
小泉元総理の顔と、後ろに群がる人間達のパワーゲームに囚われながら、
自身の言葉でない言葉ばかりを、きれい事に言い繕う世故に長けた政治屋の
顔の違いなのである。アーティストに至ってはてき面にそれが分かる。
また、それが分からなければプロとしてはやってられない。作品の出来に関る。
ただ、それが善悪やよしあしなどに囚われない所に、時として”ろくでなし”と
言われる由縁があるのだろうか?

我々に言わせれば永山則夫や阿部定でさえ、いとおしい”存在”なのである。
お芝居を創る場合は圧倒的にそのような存在のある主人公の方が面白いし
観客に生きる勇気と希望を与える作品に仕上がる事が多い気がする。
竜馬のように破滅的に終わるような人生でさえも、人々は彼を支持するのだ。
無為にただ長生きをしたいと思っている輩でさえ、あんな人生は俺とは思想が
違うと否定しないのだ。不思議なものである・・。

ウォーターゲート事件を扱った「大統領の陰謀」では二人の新聞記者が主人公
になり、国家の最高権力者の犯罪を暴くという痛快なサスペンスになっているが、
リチャードニクソン本人をを主人公にしてもよかったはずである。
そうしろとプロデューサーに言われればニクソンを主人公にして創らない事も
ないが、テーマは、政敵の党本部に盗聴器を仕掛けようとする男の精神病理と
その子供時代からの存在のありかを探る事になるだろう。とにかくどこかにその
人間の真実を見出せなければ話にならない。いずれにせよ娯楽にはなり難いか
娯楽にしようと思えば徹底的に韜晦してナンセンスコメディーにするしかない?

朝青龍は何を戦っていたのか?

彼の今回の推移は、様々な意味で保守的な日本の村社会の中でもとりわけ
封建的とも言うべき日本相撲協会とリベラルな才能ある一人の存在と戦いで
あったように思う。しかもその存在は外国人(他者)というおまけつきである。
横綱の彼が知る所となる様々な協会の腐敗構造と、高見山以来の外国人力士
という存在のあり方、実質外国人力士が支えている相撲の現実・・・。

野茂は近鉄を批判してそれこそ石持て追われるように大リーグに行った。
彼が戦ったものは何だったのか?そして守ろうとしたものは・・・。
そしてその球団は今は無い。球団は何を守ろうとして野茂を放逐したのか?
その野茂のおかげで今のイチローは存在するといっていいと思う。

皮肉にも、朝青龍がやめた後、相撲協会の腐敗の数々が次々と露呈した。
朝青龍に向けられた「横綱の品格」やら「礼節」などという言葉が虚しく響く。
しかもその後の協会の理事達の対応が腐敗しきった愚劣な協会の膠着した
内向きの自浄作用の無い村社会まるだしの実体をあからさまに国民に見せて
しまったのである。

言葉のきれい事=”嘘”を朝青龍は半ば意識的に、彼独特の方法で糾弾していた
と思われる節がある。彼の行為は単なる型破りという次元ではなく、協会の本質的
な実体に向けられていたのである。その事に協会も気付いていた。単なる
やんちゃな男の問題ではなく、その矛先が協会の存在のあり方自体に向けられて
いる事を感ずいていたのである。朝青龍をヒールに仕立てるシナリオが出来る・・。

創造的な人間が様々な空想や想像を現実世界に持ち込む時、想像する事が
現実のみすぼらしさへの報復だという考え方は、現実と想像の間に「階級」を
持ち込むことである。想像力は状況によって生み出されるものではなく、むしろ
与えられた情況に、自身の状況を与え返すための武器でなければならない。

朝青龍はそこを誤ったのかもしれない、孤独な戦いだった事も影響があるだろう。
朝青龍が日本人ならまた違った扱い、展開になっていただろう・・・。
そこが、貴乃花が一門を飛び出して理事選に登場した事とは事情を異にする。
「日本人じゃないから礼儀が分からないのだ。」などと揶揄される。
ここにもあきらかな協会の稚拙な偏見があった。モンゴルの人に何と失礼な!
後は、引き金の口実を待つばかりである。かようにして村社会は異物を排除する
教科書のようなやり方である。相手が被害届を出さなかったにも拘らずである・・
ヤクザとの深い癒着や賭博行為よりもはるかに重い罰が課せられる事になる。

それでは相撲協会は何を守ったのだろうか?
”相撲”は間違いなく衰退してゆくだろう。既得権にしがみつく内向きの不勉強な
才能のない面白くも何ともないない奴等ばかりが生き残るのだから・・・。

朝青龍はいうべき事を言い、土俵にキスをし、ガッツポーズで鮮やかに彼らしく
土俵を去った。薄汚い協会を残し、どちらが勝者か分からない様な感じで・・。

17日にいよいよ稲刈りがあるようだ。長いようであっという間だった。
来年はもう少し専門的な技術を教えていただいて、今一歩米作りに近づきたい。
山形に若い女性だけの農場が出来たそうだ。悪戦苦闘のようだが頑張って欲しい。
海が危険な状態が続いている。遂にクロマグロは絶滅危惧種になったそうだ。

「持続可能な社会」といわれてもう25年にもなろうとしている。
その間私達はバブルとその余波で何もせず手をこまねいて、目先の稼ぎに
終始し、これからの世代に確実に苦しみを残すことになるに至った。
地球環境・経済・社会保障に関してとんでもない時代が到来しようとしている。
この3重苦の中を生き抜くガッツが若者にあるのかも心配だ。
のうのうと、日本で生きているのが恥ずかしくなるような時が来る様な気がする。
「こんな日本に誰がした!」と言われれば、私は関係ありませんとは言えない。

自身の無力さをひしひしと感じる。これでも貧乏に耐えながら戦ってきた心算
なのだが・・。

テレビが3Dじゃなくていいから、とりあえず自給率を60%まであげようよ。
とりあえず、この国の人々が最低限の生存の保障を得られる体制だけでも
確保しておこうよ。
賢治の「農民芸術論」じゃないが、朝起きて朝ごはんを食べ、畑を耕して働き
昼ごはんを食べ、働き、夜には歌を歌い、本を読み、語り合い・・絵を描いたり・・
想像力と想像力さえあれば1日500円ぐらいで充分楽しい生活が出来るような
気がするんだけど・・この生活って今より不幸?





author:dolphys, category:-, 18:03
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薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−63
 四王寺山がしなだれかかった雲に煙っている・・・美しい・・・・・・・・風はない。
灼熱の夏を耐えた草木の葉がしっとりと休息をむさぼっている・・。
こんな朝は”サティ”かな・・・・? ジムノペディをかける。

コンチャさんから頂いたエチオピアのイエルガチャフェ村のモカ・シダモを淹れる。
深い苦味の奥にアーモンドのような香り、なめし皮のような香りもかすかに漂う。
雑味の無いすっきりとしたコク・・・・やはり深煎りはいい・・一口で満たされる・・。
サティはどんな珈琲を飲んでいたのかしらん?やはりフレンチローストか・・?

物言えば唇寒し秋の空・・か、もうコメントをする気力も失せてしまうような愚劣な
新聞記事が続く。ブッシュの時のニュヨークの友人の気持ちがわかる気がする、
「アメリカ人である事が恥ずかしい。」と彼は当時よく言っていた・・・・。
やはりバブルが境目のような気がする。日本人は本当に変わってしまった・・・。

「トリスハイボール」のキャンペーンがかまびすしい。
東京では立ち飲み屋やホッピーも大流行だそうである。
その様なものは、元々私のような社会の最下層の人間のお友達だったはずだ。
場末の、あるいはガード下の、ねずみやゴキブリが走り回る、掃き溜めの様な
飲み屋の専売特許だったはずである。
まともな家庭の方々は「あそこは危ないところだから近づいちゃだめよ。」と言って
憚らない飲み屋とそこに屯する人々の嗜むものであったはずである。
しかるにこの様変わりは何だろう?

チョット前まで「角ハイ」とか言って、小雪とかいう何処が魅力かよく解らない
タレントを使って、「角」の製造が間に合わないくらいに売りまくったかと思うと
今度は「トリスハイボール」である。文化としてではなく瞬間でも売り上げが
上がればいい、という心根が見え見えな上に、もうそういう事を隠そうとも
しなくなった。日本人が特に若い層が確実に貧しくなってきているのだろう。
その、貧乏人からも、取れるものは徹底的に搾り取ろうという事か・・?
トヨタも軽自動車に参戦するそうである。形振り構わぬとはこの事か?

ハイボールはおそらく今70歳前後の方々より上の方が親しんだ飲み物だろう。
私がお酒を飲み始めた頃は、既に水割りが主流でハイボールなど無かった。
まだ20代の頃、巡業で立ち寄った八戸の市民会館のすぐ傍に、上品な老夫婦
がおやりになっている小さな酒場があった。「ハイボール」というメニューが珍しく
早速注文すると、当然トリスのハイボールがでてきた。角ハイボールなど今の
今まで聞いた事がない。焼酎も最下層の我々だけの飲み物だった時代である。

ハイボールと注文すれば、それこそカクテルとして様々なウイスキーで創って
くれるお店もあったが、ご存知のようにハイボールを注文する輩も居なかった。
後は、神戸の西南大学の傍にやはりハイボールを出している小粋な店があった。
それ以外にメニューとしてハイボールを出している店の記憶が無い。(バーは別)

浅草の六区を北へ抜けたすき焼きの”今半”のある商店街の片隅に『甘粕』という
小さな飲み屋がある。所謂昭和モダンの香りがするインテリアのカウンターだけの
小さな飲み屋である。実はこの飲み屋を一人で切り盛りしているおばあさんこそ
あの有名な甘粕事件の首謀者、甘粕大尉の弟甘粕三郎陸軍大佐の娘さんである

この店には、飲み物はビールとウイスキーしかない。しかもすべて国産。
この店の浅草でも有名な名物がハイボールである。勿論トリス。
トリスウイスキーはハイボールにして初めて美味しさが引き立つ酒なのである。
しかも、この店のハイボール専用のグラスは特注で、それこそ、口が切れるの
ではないかと思えるほど薄く、そして大きい。

トリスをたっぷりと注ぎ氷をぶち込みキリキリに冷えたソーダで割る。
この口当たりは「甘粕」のグラスでしか味わえない。
三々五々、地元のおじ様や某有名落語家や放送局の方々などが常連だ。
ポツ・・・ポツと会話が弾む。会話と会話の間がまたいい。
初めて行った時から、私は顔が甘粕大尉によく似ているらしく可愛がって
いただいた。まだご存命ならお店はあるはずだが・・・。

この様な私のハイボール原風景があるため、私の店には6年前の開店当時
から、トリスのハイボールはメニューに燦然と輝いているのだが、最近になって
よく出るようになった。しかし、思いの無い売らんかな商売の騒がしさや、今の
一事しのぎの物事の流行らせ方には吐き気がする。

そうこうしていると、照明家の山口君が東京から店を訪ねてくれた。
よく聞くと「愛の妙薬」というドニゼッティのオペラで昨日福岡入りしたとか・・。
このオペラにはうちのお客様が出演されているので気になっていた。
「奇遇だね。」
「不思議なもんだな・・・。」
「いやあ、こんなに面白いオペラが¥5000で見られるなんていいよな・・。」
山口君も元々福岡の出身である。20代の頃、私の先輩が見所があると拉致して
東京へ連れてきた。私の後輩に当たる。
見所があるも無いも、今や日本を代表する照明家の一人になってしまった。
アクロスじゃオペラには狭いだろうと言うと、ちょっと苦労するかな・・などと言う。

山口君は見かけによらず本当に綺麗で品のある明かりを創る。
私も東京時代、自分の作・演出の作品は必ずと言っていいほど彼に照明を頼んだ

「東京と地方の格差はかなりだね・」
「どうして?」
「天神・・・あそこ九州一の繁華街だろう・・・?」
「そうだよな・・。」
「地方から発信できるものを、どんどんやらなくちゃ・・。」
「それが、事の他大変なんだぜ、東京の尺度で地方を考えちゃ駄目よ・・。」
「どこが?」
「たとえば、四季が福岡撤退しただろ、13年かかってミュージカルの土壌すら
出来てないんだぜ、札幌には地元のミュージカル劇団まであるというのに・・。」
「えっ、ミュージカル劇団ないの?」
「ない。まず俺もミュージカル作ろうと考えた事あるが、歌って踊って芝居が出来る
役者が居ないんだ、ここには。」
「エーッ、居ないの?ほんとかよ・・・。」
「な。まずはそれが出来る役者をつくらにゃならん訳よ。浅利さんも匙投げだよ?」
「大変だな・・・。世間では福岡と言えば芸能好きな土地柄だと思われているのにな」
「だから、芸能・・芸能好き・・芸能界・・・ネッ・・」
「あっ、そうか、芸能好きね〜。芸能界・・ね・・。」
「ハイボールでももらおうか?」
「ハイボールはトリス・・ねっ・・これ日本の文化・・・流行じゃない・・ねっ・・」
「芸能界と芸能者は違いますっ。流行じゃない本物の芸と文化・・ねっ・・。」

「愛の妙薬」・・・お客さんが沢山入るといいね・・。
「そうだね、お金が無い中で本当にみんな頑張っているよな。いいよこれは・・。」
「まあ、少なくとも照明は世界レベルが約束されている訳だ・・。」
「そんなんでもないんだぜ・・俺も・・。」
「まあ、そろそろ俺達も引退だもんな、最後は何処に住む?」
「そう、今嫁さんと探してるんだよな〜横浜でも和歌山でもいいんだけど・・。」
(彼は現在この2箇所に家を持っている。)
「海外は?」
「そうなんだよな・・。世界のややこしい事に巻き込まれないような所かな・・。」
「俺も・・・日本は不安でしょうがないね・・大丈夫かな・・?」
「大丈夫じゃないかもよ・・。」
「大丈夫じゃないかもね・・。」






author:dolphys, category:-, 09:50
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9月25日 古都の光 イベント情報

 1回書いただけで御無沙汰しているいつものです。

さて、太宰府では、9月25日(土)に、“千灯明”というお祭りがあり、20:00から蝋燭の光の中、巫女さんが神楽を奉納するお祭りがあります。

それにあわせて、太宰府天満宮から水城まで、紙灯籠で光の道をつくり、太宰府天満宮から水城をつなぐ「古都の光」というイベントを行っています。
そこに、マスター含めた有志で、政庁跡(都府楼跡)でイベントを行います。
政庁の回廊跡に灯籠を置いて、当時の建物の大きさやにぎわいを想像してもらおうと思っています。その中でチェロのソロ演奏などを行います。

私たちのほかにも、観世音寺や坂本、水城などでイベントを行っています。

【政庁跡】
19:15 チェロ演奏
19:50 万葉朗誦

【国立博物館前】
18:00 ミニ演奏会(オーボエ)
18:45、19:30 影絵上演

【浮殿】
19:30 オーボエ、電子オルガンの演奏会

【天満宮参道 風見鶏前】
18:30 演奏会

【天満宮参道 かさの屋前】
19:00 モンゴル馬頭琴演奏会

【観世音寺】
和太鼓演奏、琵琶演奏、吟詠

【水城跡東門(旧3号線)】
ほら貝演奏、和太鼓演奏、琴演奏、アコースティックライブ

【水城跡西門(JR水城駅)】
和太鼓演奏、吹奏楽演奏、オカリナ演奏

天気もよく、暑くもなくなってきましたので、みなさん太宰府に来てくださいね。

author:itsumono, category:-, 07:16
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薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−62
 昨夜は14夜の月が眩しいほど瞬いていました。今日が満月ですね。
男も女も満月になると何かが変わるのでしょうか?
月光浴をしていると周りの景色が何故か違って見えます。不思議ですね・・。

今朝も新聞を見ると暗いニュースばかりでいやになります。
思考を停止して愉しみたいのですが、阪神も直接対決の緒戦に負けて(よく考える
と、これが憂鬱の一番の原因かもしれません。)なかなか、思考を止められません
偉い事なんて何も出来なくていいから、真面目に、静かに、正直に生きていたい
とは妻の言葉。本当にそう思います、何せ隠居の心算で此処に来たのですから。

大阪の特捜のエースと言われた方が、証拠改ざんの疑いで逮捕されたとか・・。
何でこんな事をする必要があったのでしょうか?偉い人の考える事は解りません。
ただ”真実”を追究すればいいお仕事だと思っていました。彼にとってもそれをして
何の得があるのでしょう?ホント、解りませんな・・・。

唯一つ面白いのは、この事件で冤罪で逮捕拘留された村木厚子女史が
阪神タイガースファンになった事くらいですか・・。
大阪の拘置所では何故か阪神戦のラジオ中継だけは流れていたそうです。
それを聞いているうちに阪神ファンに・・ほんまかいな・・と思うでしょうが、本当
らしいですよ・・。

いずれにせよ、又一人心強い仲間が増えた事は間違いありません。
それにしても大阪はホント可愛いですね、拘置所でも阪神戦だけは流しよる・・。
こういう所が大阪の味でしょう。ええなあ・・大阪のアイデンティティを感じます。
もう球団が出来て60年ですか、そのうちの40年ほど阪神ファンをやってます。

それにしても、昔のように手書きの書類なら改ざんは難しかったでしょうね。
フロッピーだから簡単に出来てしまう、簡単に出来てしまうから、ちょっと
やりたいな程度の思いでもやれてしまう。
よく「出来心」などといいますが、手書きの書類を改ざんしようとすれば
面倒くさく「出来心」ぐらいの勢いでは、しなかったかもしれませんね・・。

パソコンの恐ろしさはこんな所にも潜んでいる様な気がしますね・・。
ちょっとしたミスでとんでもない事になる。

中年の特捜部のエースが家族のために買ったたこ焼きをぶら下げて梅田の
新地辺りを歩いている。
「ちょっと、お兄さん久しぶりねえ。」と街の女の声。久しぶりも何もはじめてである。
「寄って行かない?」
「不景気なんだ・・。」

彼は今、仕事場の外に居る、家庭の外にも居る、およそ自分が生きてきた
現実世界の、そのまた外に居る。
「そんな事言わずに、どう?」その声はまるで何億光年も彼方から聞こえてくる。
「今度の仕事がうまくいったら寄るよ・・。」と言って彼は女を一瞥して立ち去る。

又一つ、大きな悪をあばくという物語が、梅田のネオンに溶け込む・・。
又一つ、自分の伝説が増える・・。
ほろ酔いのあらゆる友情を拒絶しなければならない領域に今日踏み込んで
しまった。「しまった!」ではもう済まされない。

後は、この街のネオンを写す水溜りにある自分の運命をつま先で転がしてゆく
だけだ。調書の饒舌は事実を情緒的に解消してしまい、真実の思想化を妨げ
てゆく。こうしたアルゴリズムの希薄さが日常の外へと彼を押しやる・・。
「何ていったっけあの女?」
さっき20億光年の彼方で出会った女の名を思い出せない・・・。

考えてみれば、国家や権力による情報操作や改ざんなど日常茶飯事では
なかったか?前の戦争は勿論、関東大震災の時の朝鮮人大虐殺や、近くは
核兵器に関する機密文書などそれこそ枚挙にいとまがないだろう。
しかし、いつでも言えるのは”真実”は一つだという事である。

世論やマスコミがどうであろうと、”真実”がある人間は恐れることはない。
少なくとも今の法治国家・民主主義の日本であれば・・という事なのだが・・。
松本サリン事件の河野さんも、今回の村木さんもその拠り所がなければ
また違った対処をせざるを得なかったであろう・・。

実のない上っ面の言葉の氾濫。漂流する人々・・。
我々は何処から来ないで、何処に行かないのだろうか・・?

「太宰治が小説を書く前に、30分腕立て伏せや腹筋などの運動をしていたら
彼の書くものは随分変わっていただろう。」とは三島由紀夫の言葉・・。
二人とも病気と言えば病気だが、この言葉は何を意味しているのだろう?

この特捜のエースと言われた男に、太宰のニヒリズムを感じてしまうのは
私だけだろうか・・・?

彼がフロッピーに手をつけたのはきっと満月の夜だったと思います・・。


author:dolphys, category:-, 11:16
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薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−61
 今朝のお掃除音楽はマーラーの5番。
1985年頃のマーラールネッサンスあたりで俄然クローズアップされた作品だ。
朝日があまりにも爽やかなので、デッキでしばし新聞を見ながら珈琲を飲む。
コンチャさんの深入り珈琲にパレオから洩れた光がキラキラと黒く光る。
何故かマーラーは朝がよく似合うようだ。

風がパレオを揺らし光が私の顔を横切った。
この宇宙の大きな自然に育まれた私達の自然(身体=心)が喜んでいる。
景気がどうの、株価がどうのと言う以前に、このかけがえの無い自然と人の心の
問題がとどのつまり、将来一番重大な影響を私達の社会に及ぼす様な気がする
と言うかすでに影響を及ぼし始めている。

地球環境(水・空気・食)と教育。
地球環境に関しては、もはや私達の実感として様々な異常を感じられる領域に
入ってきたようだ。しかしこの現象は地球的規模の問題であり、世界の協調が
なければとても改善される問題ではないが、もう一つの問題は世界の中でも
この日本に特化した深刻な問題である。勿論世界にもこれと似た現象はあるが、
よく見ると、性質が少し違う。

それは、社会の成り立ち、社会の構造、民度の違いなどがその背景にあると
思われるが、この日本が群を抜いて圧倒的に質・量とも世界を凌駕している
様々な地平での教育の脱臼は、将来の日本に暗い大きな影を落としていると
言えるだろう。
それは、”ひきこもり”・ネットオタク・パラサイトシングル・草食系などに代表される
幼児期の家庭教育から大学に至る「学校」だけに特化させてはいけない<教育>
の問題である。

結果、当然自立した生活をしているはずの成人の約300万人が不労人口に
なっている。予備軍・草食系も合わせれば、500万人を超えるという人も居る。
この傾向は年々増加の一途を辿っている。
勿論、国によっては経済が深刻で働きたくとも仕事が無いなどという国は沢山ある
しかし、日本が何故問題なのかと言えば、この不労の内実・性質にある。そこには
日本の<教育>と<社会>が持っている深刻な現実が横たわっているからだ。

そのキーワードは、宮崎勤・酒鬼薔薇事件から秋葉原無差別殺人事件への
一連の事件群が象徴しているように、ネット社会・携帯電話・性的偏向・ブログ
など総称すればいずれも”身体性の喪失”の問題である事がわかる。

ネットの問題は何回かこのブログでも取り上げているが、ネットそのものには何の
罪もない。むしろこれからもどんどん便利になって行くだろう。
問題は人間である。ネットを扱う主体の側にある事は明らかだ。その主体は
日々どの様な精神環境に晒されているのか?また後天的に、ネットにのめりこむ
事によって影響を受ける身体性を喪失した”心”の問題も複合的に絡み合って来る

i−pad が登場した時に生まれた子供が成人する10年後20年後の世界を、
好事家達とシミュレーションしてみる。

現在、農業の全就労者の60%が65歳以上だから、20年後はその方々はすでに
農業に従事していないと思われる。60歳を考えても80歳だから何%の方がまだ
従事していらっしゃるか・・。残りの40%弱の農民と、この間に何人ぐらい新たに
農業に就業されるか分からないが、農民の数が現在と比べても激減す事はほぼ
確実だと思われる。(自分の子を農業に従事させよう・しようなどと言う親・本人は、
劇的に<教育>をめぐる価値観⇒学暦偏重社会や拝金主義・勝ち組・負け組み
などの弱肉強食社会などの価値観が変わらない限りあまりいないだろう。)

また、工場化して農作物を企業ベースで生産するというやり方も、長い目で見れば
地球環境に深刻な影響を与える事になるだろう。メソポタミア文明の滅亡の原因は
正にこの農業の方法論の間違いにあった。

現在の自給率が約40%、同じ効率で作業しても農業人口が半減するのだから
自給率も半減すると考えるのが妥当だろう。
一方食糧の輸入についてはどの様な展開になっているか予想もつかない。
ただ言えるのは、加速度的に悪化する地球環境と世界の人口の増加によって
世界レベルで”水”と”食糧”の問題は深刻化しているはずである。(この儘いけば)

日本では許可されていない農薬や添加物などが入った、決して安全が保障
されない食糧を食べざるを得ない状況にもなっているかもしれない。(今もだが)
私のような貧乏人は、兎に角安い食料を食うしかないのである。
そういう中、国は20年後には自給率を60%まで上げると言っているが、CO2削減
25%と同様、到底、現実的な数字とは思えない。食糧の値上がりは必至である。

さて、今20歳から35歳位までの親の年齢は40歳から65歳くらいだろうか・・。
そのうちの約15%はニートである。この比率も年々加速度的に増えつつある。
今は、親も働いており稼ぎがあるから、それでもホームレスにならずに、ひきこもり
オタク・パラサイトシングルをしていられるが、20年後彼等の親は完全に年金生活
年齢に突入している。何十年も就労経験が無い人間が、さあ大変だと仕事に
すんなり従事できるか?またそのような人間を雇う企業があるか?疑問である。
20年後にはその比率は30%位に増えている可能性があると指摘する人も居る。
団塊の世代とそれに続く私達の世代は、その多くがまだくたばっちゃいない。

ネットの書き込みなどを見るとそんな将来を微塵も想像していない有様がわかる。
たまに見るそれには「「そん時は、生活保護でも貰えばいいんじゃねえの〜。」
年金を払える若者も激減している中、そんなに多勢の生活保護を出す力は
その時、もはや国には無いと思えるがどうだろう・・。

畢竟、親が我が子を一生面倒見る羽目になる。
自分達が死んだ後も生活できるように蓄えられる世帯は蓄える。そうでない世帯は
後は野となれ山となれと言うしかない。

尚且つ、この割合は20歳〜35歳の中で年々増加している。
拝金主義のネット産業はそんな事お構いなく、どんどん面白いソフトを開発し
(自然を相手に遊んだ方がよっぽど面白いと思うのだが・・)
若者達をモニター画面に釘付けにしてゆく。行動しない事、生々しい人間関係
が面倒になる、などのメンタリティが知らず知らずのうちに育まれてゆく。

家庭教育があるいは家庭が崩壊し始めている。虐待や育児放棄に至らないまでも
0歳から6歳までの人間の基本的な教育が崩壊し始めている。その現象はそのまま
小学校・中学校・高校と玉突きのように崩れていく、ドミノ倒しのようだ。
まだ学生の間はいい、現実に成果をあげなければならない企業にとっては深刻な
問題だろう・・。(人間力の低下は企業にとって最も恐るべき事態だからだ)

経済が20年後どうなっているかは勉強不足で分からない。しかし、国力は確実に
落ちていると思われる。どの程度深刻になれば腰を上げるのか分からないが、
このままいけば、日本全国かなり辛い事になるんじゃないの・・・?

私は社会主義者じゃないが、日本国民全員が今の生活の2割減位まで生活レベル
を下げる覚悟で、社会の構造・価値観(教育)を変えない限り、この事態は起こり得る
のではないか?という気がしないでもない。

それ以前に地球環境がどうなっているのか?の方が深刻かもしれない・・。
リアルな社会生活がどんどん縮小し、それを補うIT機器がどんどん開発され
ますます人間の職場はなくなるかもしれない・・。実際マニュアル通りにしか
働けないような人間なら、機械に取って代わられても文句は言えまい。
人間は考えると同時に感じる事ができる動物であるはずである。

”頭”ではなく”心”をどう育むかという事が、学校ではない<教育>の問題なのだ。
教育=学校ではない。本質的な教育は家庭で行われるべきものだったはずである。

この僥倖のような快適な朝に、地球の裏側ブラジルのお百姓さんが育てた珈琲を
飲める。  何という贅沢。神をも恐れぬ小原庄助さんと言われてもおかしくない。
天地の愛は恩をきせない。今日もまた太陽は淡々と東の空から昇ってくるのである




author:dolphys, category:-, 09:22
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薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−61
谷啓が死んだ。
今年は井上ひさし・つかこうへい・奥村三郎と私の大事な人達が逝ってしまった。
東京時代の仕事仲間、舞台監督の森君が九州ツアーの合間に訪ねてくれた。 
井上さんの思い出話から、その周辺、早くして逝った仲間達の話になる。
この業界は自殺も含めて世間より早死にする奴が多いと思う。

宮崎駿と養老孟司の対談集の中で、宮崎さんが「僕は仕事をしていると日常
なんかどうでもよくなっちゃうんです。」と言っていたので思わず笑った。
宮崎さんもそうか・・・その日常なんかどうでもいい人生がずっと続いている。
いつ寝ようが、何を食おうが、何を着てようが、お金が無かろうがどうでもいい。
そんな無茶苦茶な生活を続けていれば早死にするのもむべなるかなである。
じゃあ、人生に何を求めているのか?・・・・・ 何を求めているのだろう?

生活に興味が無い?いや、世間の多くの人が言う様な”生活”のイメージに
興味が無いのだろう。  ランボーが言うように「生活はどこにでもある」のだ。
アフリカの難民の生活も生活であり、今の日本のような生活も生活である。
正しい人生などが無いのと同じように、正しい生活などというものも無い。
どうでなければならない生活、あるべき生活など元々何処にも無いのだ。
なのに私達はあたかもそれがあるように振舞う。

明治維新から、戦後日本は欧米型の生活に憧れ追い続けてきた。
もはや、畳に普通に正座していられる若者は殆ど居ない。
じゃあ欧米型の生活が他のどの地域の生活よりいいのか?
これもまた誰にも答えられない事の一つだろう。
われわれは、生活という事について何を知っているのだろうか?
その答える事もできないものを、自明の事として漠と追い続けるという作業が、
逆に我々をどのような生活に導いていくのだろうか・・。

「国民の生活が第一」などというどこかの政党のスローガンは、ただ単に
通俗な欲望の文脈に沿った意味での”より快適な暮らし”を匂わせ、わが党こそ
が皆さんの生活をそのように実現させますよと言っている事を暗黙に国民が
了解するだろうと想定した上で成り立っている。
しかし、生活の中身については具体的に何も語られていない。
国民が手前勝手に解釈する事を知った上でこの実は無内容なスローガンは
存在する。

このような擬制のきれい事で最近の日本は埋め尽くされてきた感がある。
だから、具体的な方向性や行動に結びつかないのだろう。
具体的にしようとすれば、すぐにこの身勝手な解釈どうしがぶつかり合い、
収集がつかなくなる事は目に見えているからである。
だから、この結局何も語っていないスローガンの次元で話を留めて置こう
という事になる。
内向きにはそれで済むかも知れない。
しかし、世界は現実的に具体的で明確な戦略を持って今も動いているのだ。
そのうち、「日本」という国の輪郭さえも「日本」という言葉だけのものになるかも
知れない。

何かが気になっているのだ。おそらく現実の場当たり的な”生活”というものを
斟酌する事さえ忘れてしまうほどの何かが、気になっているのだろう。
それは何か? 
美味しいものも食べた、豪華な温泉旅行もした、綺麗なオベベも買った、
高級な車にも乗った、海外旅行もした・・しかし、そのような事では満たされない、
本質的な何かが気になっているのだ。
アーティストとはそのような存在の流浪者だったような気がする。

そもそも、アランやホイットマンや夢野久作の中に出てくる生活の中には
生活は無い。

私の詩の中には
いつも汽車が走っている
だが私はその汽車に乗った事がない

とは、誰の詩だっただろうか?
ジャズの即興のように取り留めも無く続く俯瞰された日常の中に汽車が走る。
死してまた銀河鉄道に乗り、離れ行く魂たち・・・。
誰かが仕事は手段だと言っていた・・・ならばその目的は如何?

「幸福」?
テレビの受像機に映る「幸福」の形・・・。「生活」の形・・・。
ペルシャのはつかねずみにも、フォークナーの鷲鼻にも「幸福」を補完する物など
なにもない。ただ快楽が支持的機能を持った代用品のように空中に浮遊する。

「日常なんてどうでもよくなってしまうんです。」と宮崎駿が言う時、彼の魂は
もう後戻りできない一方向に走り去る汽車を見ているのだ。
その先にあるのは宇宙であり宇宙の常態は”闇”である。
すなわち、闇こそが私達の世界の基本であり、朝日に光る雨露や赤く染まる雲
などはむしろ僥倖と見るべきだろう・・。
だから私達は、肩をつぼめ、我慢強く・・・夜を呟くのだ・・・。










author:dolphys, category:-, 10:36
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薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−60
 エキセントリックな雨が降ったあくる日の今日は快晴!と喜びたい所だが・・。

案山子を作った。6月田植えをした私達の水田も、穂が付きはじめている。
お母さんや子供たち約30名程が参加した。
面白いのでどんどん作る。結局10体の案山子ができた。
たった、1反半の水田に10体の案山子・・・。
ならべてみると、むしろすずめが興味を持って寄ってくるんじゃないかと思える
程の風情である。子供たちも皆自分の作品に満足しているようだ。

秋になれば稲刈り・脱穀といよいよ収穫の時が来る。無事に育って欲しい。
私達の田んぼの一段下の田んぼの端が2メートルほど帯状に茶色く変色して
稲が倒れている。どうしたのか聞いたら、異常な日照続きでいつものような水の
管理では駄目だった様ですとの事。稲が途中で枯れているのを生まれて始めて
見た。
この環境の変化は自然を相手にしているお百姓さんや漁師さん達の方が敏感に
感じているに違いない。

今、案山子を作って楽しそうにさんざめいている、この子達が成人する頃に
地球環境・食糧・水・人々の暮らしはどうなっているだろう・・・。

「資本主義が崩壊し始めているのよ。」とは東京のファンド系の会社に勤める
私の同級生の言だ。「新しい経済モデル・産業体系を考え出さなければ、
環境問題が解決する訳もないでしょ、このままじゃ皆共倒れね・・。」と
涼しい声で仰る。

何とか、この子供達に「生まれてきてよかった。」と将来言わせたいと思う。
とりあえず、水と食料さえ安定的にあれば生きていけるのだが・・・。

ズービン・メーター指揮のイスラエル管弦楽団が11月8日にアクロスに来る。
イスラエル管弦楽団と言えば今や世界の5本の指に入る交響楽団だ。
バーンスタインが指揮していた頃のニューヨークフィルの落とし児的楽団だ。
あの頃のニューヨークフィルは世界から超一流プレーヤーをかき集め、
野球だったら巨人。サッカーだったらバルセロナのような楽団で、文字通り
世界を席巻していた。しかし、アートとは面白いもので、チャイコフスキー
などを聞くと、ニューヨークフィルよりレニングラード管弦楽団の方がいいね
というような事があるから油断ならない。

作品はベートーベンの「田園」とストラビンスキーの「春の祭典」だ。
ちょっとサービスしすぎなんじゃないの?と思ったが出かけることにした。
この案山子を作った子供達にも聞かせてやりたい。「田園」に相応しい
田園は今何処にあるのだろう・・。「踊るポンポコリン」より面白いよ・・・。

土曜日はライブだった。
アマチュアの親父バンドだがなかなかの腕前。
ギター2本・ベース・ドラム・キーボード・バリトンサックスという6人編成だ。
このリードボーカルの佐々木さんが素晴らしかった。
ロック野郎というに相応しいオーラが体全体から出ている。この一点において
このバンドの”存在”は価値があると思った。
もし彼が居なかったら、このバンドは単なるチョット上手なオヤジバンドという
域を出ていないだろう。

プロとアマの違いはまず”存在”として問われるのだ。
技術云々などの問題は直接プロが問うことはない。、そのようなものを問う様な
次元にプロはいない。問題は存在の本質なのだ。勿論彼はアマチュアである。
しかし、何故か、存在の仕方がロック野郎そのままのような空気感がある。

生き様なのだ・・・。

昔、沢田研二主演のミュージカルをした事があった。
豪華キャストでその年の演劇界の話題をさらった作品となった。
その中日パーティーの席で、芝居のある問題を巡って、桑名正博が沢田を殴った。
いろいろあるが、この”功なり名を遂げた”二人が殴りあったという一点で、こいつら
はまだまだ現役なんだと嬉しくなった。
「金持ち喧嘩せず。」などロックでは断じてない。勿論マスコミにはオフレコだ。
この二人が殴りあったなど格好の餌食だろう。

二人の言い分を聞く。沢田さんはめがねが壊れチョット顔を切ったので先に帰った。
その後、桑名達と六本木のライブハウスに・・・、朝4時ごろ飛び入りした桑名は
歌の途中で「ロックは暴力とセックスだ〜!」などと訳のわから無い事を叫ぶ。
この言葉が妥当かどうかが問題なのではない。こういう”存在”がロックをする。
だからロックになるのだ。ロックのように音楽を奏でるから、ロックなのではない。
ここが、プロとアマの本質的な違いだ。
ジャズメンでもこのような空気感を持っている人に、こちらへ来てあまりお目に
かかった事が無い。プロといっても単なる商売人のような人。実体は音楽の先生
で、その方が手すさびにライブをやっていらっしゃる。という感じの方が多い。
簡単に言えば「馬鹿」が少ない。やはり馬鹿は圧倒的に東京・大阪の方が多い。
最近ご機嫌な馬鹿に飢えている。心情溢れる大馬鹿野郎はいないものか・・。
その片鱗が何故かこのオヤジバンドのリードボーカルからかいま見えた。

ニューヨークフィルがいかにオールスターでもレニングラードのチャイコフスキー
の方が<いい>という事が起こるのもこの様な事とかなり似ていると思う。
表現とは小手先ではなく”存在”そのものがかかっているのだろう。
だから、いくら巧くなってもアマチュアはアマチュアなのだ。決してプロになれない。
よく、あの人は「玄人はだし」の腕前なんですよ、などと言うが、アマチュアが目標
にするのはせいぜいこんな事なのだ。アーティストが求めているものは
そんなチンケなものではない。

安部ちゃんが、大西順子の新譜を持ってきてくれた。題して「バロック」
バロックにはグロテスクなという意味もある。
ポストモダンが見えない今、又バロックからやりなおしという訳でもないだろうが
みなの許可を得て大音量でかける。
最近ろくでなしが増えて来たのでこの様な事ができるようになった。

圧倒的な緊張感。引き締まった精神が私たちを高みへといざなう・・・。
妻が「この緊張感が普通よね。このレベルがリラックスできないとか、しんどい
とか言っているようじゃ、話にならない、これがまず普通じじゃなければね・・。」
と仰る。ニコラス・ペイトンのトランペットが順子流に炸裂している。
ジェームス・カーターのバス・クラリネットなどドルフィーかと疑う程のグルーブだ。
ああ、これだよこれ、・・・ロックと又違うジャズの馬鹿さ加減がいかんなく発揮
されている。
皆、目をつぶって音に集中している。ダブルベース(ベースが二人)ダブル
パーカッション(リズム隊も二人)が迫力ある音像の基調を支えている。
やっぱり大西順子だ。軟弱になった男に平手を食らわせるようなアルバムだ。
しかし、このアルバムを本気で聞こうなんて人は少ないんだろうな〜・・・。

その後、フィニアス・チックコリア・アーチーシェップと変態ジャズを続けて
最後にやっとドルフィーに辿り着いた。
こうやって、精神のあり方をジャズで旅すると、今更ながらドルフィーの高さに
憧れてしまう。この視聴後感に似た感じは、後はモンクを聞いた時ぐらいか・・。
コルトレーンのインプレッションあたりでもまだ肩に力が入っている感じで、この
天然馬鹿感はない。
彼等の提示している世界に人生の半分以上を魅了され続けている。

太陽がじりじりと照りつける。農作物はどうなっているのだろう・・。
ただ、ひょっとしたら今年のワインは2004年以来の出来になるかもしれない。
とりあえず、今年のボジョレに期待しよう〜っと。

author:dolphys, category:-, 09:23
pookmark
薔薇は否応なく経験によって病んでいる 10−59
 あまりにも多方面にわたって様々な事が崩れつつあり、とんでもない時代が
目の前に迫っている事を感ぜずにはいられないこの頃、朝バッハを大音量で
かけて見ると、清澄な音の調べがそれらの汚れを吹き飛ばしてくれるような
錯覚に陥るが、現実は確実に閉塞感などと言う生易しい事態ではなくなりつつ
ある事を様々な情報が示している。

このすぐには実感できない深刻な事態は、少しづつ私達の生活に影響を与え
ながら、慣らしながら”茹で蛙”を製造して行くのだろう。

昨日、アラ70歳の私の信頼する、草の根の社会活動を地道になさっている
方々とご一緒に飲む機会を得た。皆さん現役時代は大企業の重要なポストで
仕事をしてこられた方ばかりで、その実績にも感服するが、それ以上に彼等の
マインドに感服させられる。「あまりにも気になる事が多く、やるべき事が多くて
死ぬのを忘れているようなものだな。」と仰った。

国もかなりレベルが低いが、それよりはるかにレベルの低い地方の政治などに
地方分権なんて事をやらせたらとんでも無い事になる、と仰る、返す刀で、
大宰府には市民の中に本当に優秀な、もと企業人や学者、文化人が多く
住んでいらっしゃから、そういう方々に能力を発揮していただきたいのだが、
彼等がまともに参画するには、議論の焦点があまりにもお粗末なレベルなので
とても勧められない、あきれて2度と社会参画などしなくなるだろう・・。と仰る。

話が常に内向きで、自分達を取り巻く深刻で大きな問題が、外部に目前に迫って
いる事など眼中に無きがごとき議論の数々である。目の前の事、狭い人間関係
の話などが続き「なんとかせにゃいかんばい」で終わる、くりかえし・・・。

そんな中で、例の建築士の方と都庁の話をする。
私はかねてから磯崎ファンだったので、磯崎さんに都庁をやって欲しかった。
と言ったら、「あれは、出来レース、はじめから丹下さんに行く事は決まっていた。」
という事だそうだ、「そんなことより、ゴシック・バロック・ロココ・新古典主義・
アールヌーボー・アールデコ・モダンと続いてきた建築史の中で「ポストモダン」
と称した流れがあるのかと思っていたら、実はポストモダンのポストがなかった。」
というのが、今の建築界の現実のようだ。ポストモダンの建築と言われた都庁、
しかし実は、ポストモダンのポストがなかったというお粗末。

ポストが無いという事は、建築の話に限らず、そもそもポストを支える世界観が
無いということだろう。単純に言えばこの変化する現実を支える”哲学”がない。
だから、何が起きても単なる反射的な解決になるだけでその先にある世界は
いつまでも見えて来ないという事になる。

そういう中で、現役中に世界をご自身の目で、しっかりと見ていらっしゃる方々の
洞察溢れるお話を聞いていると、この声がこの街に届かないものかと思う。

クエルボ・ゴールドを飲みながら、大西順子が復活して、東京で活発にライブ活動
をしていて本当にうれしいと言われるから驚いた。大西順子の事は以前にも書いた
通り私は大の大西順子ずきである。何という偶然かと思いきや、また輪をかけて
グールドのバッハを聞いているような迫力がありますね・・。などと言うので、
またまた嬉しくなる。グレン・グールドのバッハはアンドレ・ワッツのリストと共に70’
一大センセーションを巻き起こした2人だ。研ぎ澄まされた精神のきらめきとでも
言うのだろうか?延髄がシャキッとするような演奏だ。
それにしても、まだ40代前半なのにこの博学・感性・・・・磯崎学校・・・?

早速、他のお客様の了解を得て大西順子の最新アルバムを大音量でかける。
大西順子本人はドルフィーずきである。アルバムの半分近くがドルフィーの曲だ。
しばらくすると、ワンちゃんが「へーっ、大西順子・・?」などと言って入ってくる。
このピアノトリオはジーン・ジャクソンのドラムスも井上洋介のベースもいい。
そのよくなり方が、ドルフィーと共演したミュージシャンがドルフィー流によくなる様
に順子風によくなっている、という感じなのだ。

はっきりと世界を提示できるアーティストは少ない。しかしそのわずかにある世界
にはっきりとコミットできるプレーヤーも少ないのではないかと思う。
かくして大西順子に酔いしれ夏の夜も深く暮れてゆくのだ・・。

大西順子が好き、ドルフィーが好きという人間は意外と少ないと思うが、おそらく
彼等の音楽の中に何かを感じ取りつかみとっている人種なのだと思う。
言葉では言い表せない、延髄に直接当たる共通する何かがあるのだろう・・。
グールドのバッハも然りである。しかし、これは説明できない事柄の一つだなあ。

何となく、ろくでもない店らしくなってきた気がする。

などと思いきや、今朝遂にマーケットからレタスが消えた。
正確には、半分に切った小さいレタスがわずかに売られている。
レタス半玉¥158円。秋刀魚やレタスは序章に過ぎない。
じわじわと来る生存の危機。70歳の方が、今日は歩いて来ようと思ったけど、
危険かなと思って自転車で来た。と仰った。
こんな会話が日常で交わされる事を2年前に想像しただろうか?加速度的である。

ネット関係のクールな部屋で世の中をあしらって儲ける事ではなく、 実業。
実際汗を流し、物を作る仕事はこれからどうなるのだろうか?
農業人口が15%増えたそうだ、と喜んだら、その殆どが60歳以上だそうだ。
それでも増えるという事はいい。若い世代はまた別の深刻な問題を抱えている。

政府や政治や行政のせいにばかりして、文句ばかり言わずに、国民が、本当に
主体性と責任を持って、覚悟して社会に参画していかないと、この国はとんでもない
事になりますよ。ケネディが言っていたように、「国が我々に何をしてくれるかではなく
我々が国に何が出来るか?」という事。
シチズン(市民)としての自覚を持つ必要がある。
というのがアラ70歳の方々のご意見でした。この世代の後はどうなるのだろう・・?

それにしても、団塊の世代は何をしているの?と聞かれた。
(皆さんは私を団塊の世代だと思っていらっしゃったようだ。)
「私は団塊の世代ではありませんが、このご時勢、リタイアしても余裕の無い方が
多いのではないでしょうか?」と言うと・・。
余裕のある人は何をしているのよ?と仰るので、(そんな事知るか)ですが、
全共闘パワーを、この危機の時代にに発揮していただければとは思いました。

国も社会も私達一人ひとりが作っているのだという事ですかね・・・。
確かに大きな塊の世代の方が、今の時代に声を出し、行動してくだされば
今まで同様、日本への影響は少なからずあると思いますね・・・。

まあ、なるようになるんでしょう。




author:dolphys, category:-, 09:54
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